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日本遺産フェスティバル

10月の26日と27日に行われた日本遺産フェスティバルに出展してきました。このお祭りは全国で認定されている日本遺産104個のストーリーの主催団体の持ち回りで毎年開催されているものです。


今年は福島の団体が主催だったので会津若松市で開催され、2万人ものお客様が来場されました。

実は会津と私たちの住んでるこの地域(別海・標津・羅臼)は深ーい関係があって、そのこと自体両地域に住んでる人たちもあまりご存じないのが実情です。

皆さんはペリー来航はよくご存じだと思います。ただ、同時期にロシアが日本と交渉しようと武力をかさにこの道東に来航していたことはあまり知らていません。

当時の幕府はアメリカと同様に大国ロシアに対してもきちんと手を打たなければ北海道が占領されてしまうという危機感を持ちました。

そのため東北の各藩に北海道の警護を任じたのです。中でも最前線の道東地区には、最精鋭部隊であり幕府の最も信頼できる藩であった「会津藩」をあて、北方警護の役を担わせました。

当時の会津藩は松平容保(まつだいら かたもり)という忠義な殿様が治めていましたが、皆さんもよくご存じの通り同時期に会津藩は京都守護の役割も担わせられていました。

そう、新選組の活躍したあの時代です(新選組は会津藩お抱えです)。一方では都の中心の警護、一方ではロシアという大国の見張り役、どれだけ酷使するんだって程の使われ様ですが、それだけもう幕府を助ける気概のある藩がなかったのでしょう。

いくら東北の方達とはいえ、慣れない北国の寒さの中で亡くなった方も多数おり、そのおかげもあってロシアがあからさまに攻め込んでくることはありませんでした。

野付半島にはその時亡くなられた会津藩の藩士の方々のお墓があります(標津領内です)。年に一度その藩士たちを弔う供養が行われますが、その場には松平容保公の御子孫もおいでになるほど両地域の関係は深いのです。

当時、この地に送られてきた藩士が主君である松平容保公の為に書かせてお送りした「標津・函館」の景色の屏風絵があります。

レプリカ(実物は新潟県の西儼寺にあります)も標津町のポー川史跡公園内で見ることができます。今回はこの屏風を特別に会場に運び込み、会津藩と道東の各町とのつながりを中心にお話しして非常にたくさんのお客様に共感していただきました。

別海や根室、羅臼、標津に行きたいと言っていただける会津の方がたくさんいて本当にうれしかったです。会津若松は、名城鶴ヶ城を中心とした城下町、白虎隊や戊辰戦争の悲劇の攻防など見るべきエピソードや文化財もたくさんあります。

もちろん、食べ物も極上においしいので、逆に皆さんが機会があれば会津を訪ねてみるのはいかがですか?